なんかわからんけど、いろいろあって、おかげさまで。

相変わらず、
「わたしたちの身体を通って出て来ようとする言葉たち」
を読んでは、なにか書きたい気持ちになっている。

三日連続ともなると「しつこいかな」という気もしつつ、
「ここには、僕にとってなにか大事なことが含まれている」
という感覚、惹かれるなにかがある。

文中の表現を借りれば、
ここにいる橋本さんと杉本さんと「言葉たち」に触れることで、
僕の身体を通って出て来ようとする言葉たちがある。
そんな感覚かもしれない。

なので、すいません。
いけるところまで、行ってみます。

今日気になっているのは、この部分。

僕が出会ってきた日本人は
「私がこうだった」という
明白なものを見たいわけじゃなかった。

「なんかわからんけど、あの人のおかげでここにいるんです」
とか、
「自分で決めたわけじゃないけどいろいろあって」
とかね。

ここでいう
「おかげ」とか「いろいろ」が
僕は好きだなあと思う。

なぜかというと
「自分でやった」というよりも、
広々とした感じがするから。

そして、そっちのほうが
本当にそうだなあという気がするから。

僕らは、
「なんか分からんけど」
生まれてきて、ここにいる。

その事実が、もう決定的だし、
その事実が、もううれしい。

で、「いろいろ」あって、
出会ったりはなれたりして、
いま、
これを読んでくれている人がいるとしたら、
どういうわけか、
この文字のあたりで出会っている。

すごいことだ。

もちろん、
僕は自分のしたことを
褒められるのが好きだ。

でも、これらの
「なんか分からんけど」の感じって
僕がなにかしたから嬉しいわけじゃない。

この記事では、それを
日本人古来の感覚だと説明している。

英語のように「I」と確かな主語があるわけではなくて、
相手に応じて「オレ」「僕」「私」「拙者」と
形を変えたり、時には消えたりしてしまう「自分」。

そして、消えた自分は、
そのまま「関係」なり、
それが集まった「場」なりに溶けてしまう。

そして、
その「関係」や「場」が語りだす。

ついでに言えば、
その「関係」や「場」のことを
「縁」と言ったりもする。

この記事を僕は、
そんなふうに理解して、
面白いなあと思った。

そして、
このことを考えたり書いたりしていると
なぜか嬉しくなった。

理由は不明だけれど、
開放感があるし、心強いなあと思う。

なんにもしていないのに、
思わぬ贈り物をもらったような気がして
「ありがとう」という気すらする。

いったい、なんなんだろう。

なんかわからんけど、
でも、むかしむかしの日本人が
そんなふうにして「自分」を溶かすことで
自由になることを知っていたとしたら、
それってすごい発明だよなあ、と思う。

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