欲しいのは、その「心」です。

先日、フェイスブックで見つけた記事
こんなエピソードがありました。

ある幼稚園での話。

園庭の隅で一人で遊んでいた子を見かけて、
先生は、みんなでやっている大縄跳びに誘いました。

するとその子は
「先生、この大縄跳びが終わったら、遊んでいい?」
と聞いてきたそうです。

(略)

先生がより楽しい遊びに誘ったつもりの「大縄跳び」は、
その子にとっては、遊びではなく
「誘われたからやったこと」でしかなかったのでしょう。

そこに、本人の「遊び心」は宿っていない。
いくら形式的には、遊びのカタチをしていても、
その子にとっては、遊びじゃなかったわけです。

「遊び心」が宿っていない遊びは
形式的にはそう見えても、遊びじゃない。

これは、すごく大事なことだと思いました。

そして、同じようなことが、
日常のあちこちにあると思います。

たとえば、歌。

「歌心」が宿っていない歌は、
形式的にはそう聞こえても、歌じゃない。

あるいは、笑顔。

「気持ち」が宿っていない作り笑顔は、
形式的にはそう見えても、笑顔じゃない。

似たようなところで、贈り物。

「祝福の気持ち」が宿っていない贈り物は、
形式的にはそう見えても、贈り物じゃない。

それらは、形式的には似ていても、
「感じない」「伝わってこない」
という特徴を持っています。

野球の「一球入魂」もそうだと思うんですが、
なにかが宿ったものには、力があります。

それがわかっているからこそ、
宿っていないのに宿っているフリをしているものも
後を絶たないのかもしれません。

そして、僕が、
また、少なくない数の人が渇望しているのは、
「宿っている」ほうだと思うのです。

それは、よく感じてみれば、
きっと誰にでもわかります。

ちゃんと、うれしいから。
ちゃんと、感じられるから。

とはいえ、これ、
なかなか難しいところもあるようです。

僕なりに歌を通して
研究してきたところによると、
「心をこめよう」とすると
かえって離れてしまうようなところがあります。

逆に、何の気なしに唄った歌に
勝手に宿ったりすることもあります。

自分でコントロールするのではなく、
宿るためのスペースを開けるような、
実は自分のちょっと外側にあるような、
そんな感じなんでしょうか。

ある演劇の手法では、
演技に「真実」を込めるために、
20年も訓練するといいます。

そのくらいのことですから、
子どもの「遊び心」を取り戻すのに
大人が必死になったりするのもわかります。

でも、必死になるだけの価値はある。

なぜなら、僕たちが欲しいのは
いつだって、その「心」だからです。

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